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ウズベキスタンの首都・タシュケントについて。タシュケントの歴史、気候、地区、観光地、都市開発、教育機関、交通機関などについて簡単にまとめています。
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タシュケントはソグド語での古名をチャーチュ(c'c : Čāč)、またはチャーチュカンドともいい、ペルシア語でもチャーチュ( چاچ Chāch)と称し、アラビア語ではシャーシュ( شاش Shāsh)と呼ばれた。『シャー・ナーメ』でもそのように記されている。チルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とトランスオクシアナのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。 康居の中心地であったと推定される。 国際交易では中国にまで名を知られ、『後漢書』以来石国と呼ばれた。また「チャーチュ」の音写として「者舌」(『魏書』)や隋唐時代の「柘支」、玄奘三蔵の『大唐西域記』では「赭時」と書かれた。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年には唐の将軍高仙芝が石国に侵攻したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラム帝国に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。サーマーン朝時代にはBinkathとも呼ばれた。 カラハン朝の10世紀末頃から「タシュケント」の名も現れる。1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・カンに、それぞれ破壊される。しかし、ティムール朝そしてシャイバーニー朝によって町は再建される。『西域番国志』によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「達失干」と記録されている)を訪れている。 モンゴル帝国時代にはペルシア語の「チャーチュ」やアラビア語の「シャーシュ」で呼ばれるのが一般的であったようだが、ムガル朝の始祖バーブルは自伝である『バーブル・ナーマ』において「タシュケンドは書物には“シャーシュ”または“チャーチュ”と書かれて」いると述べており、彼が中央アジアで活躍した16世紀頃には既に「タシュケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしいことが伺える。都市の名前が「チャーチュ(シャーシュ)」から「タシュケント」へ変化した原因は、恐らく「チャーチュ」の音写に由来する「石国」をウイグル地方などのテュルク語で直訳した形だと思われるが、これが現地でも使われるようになったのはウイグル地方とマーワラーアンナフル双方を領有していたチャガタイ・ウルスの影響が考えられる。 タシュケントは、1809年にはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。 1865年、帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年にトルキスタン総督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。旧市街の外側にロシア人の住む新市街ができ、ロシア人商人などが続々と移住してきた。また、中央アジアをめぐるロシアと英国の衝突で、スパイの暗躍する町となった。1874年のトルキスタン軍管区設置や1889年のカスピ海横断鉄道延伸などの新事業に従事する労働者階級のロシア人は、やがてロシア革命の中央アジアでの担い手となっていった。 ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のフレデリック・ベイリー(英語版)らスパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年、サマルカンドに代わって首都となった。 第二次世界大戦が起こると、ナチス・ドイツの侵攻を受けたヨーロッパ・ロシアから工場が疎開され、市の工業化が進み、ロシア人の割合も急増していった。戦後シベリア抑留を受けた日本人捕虜はここタシュケントにも回され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たるナヴォイ劇場の工事などに従事した。過酷な強制労働にも関わらず、後述の地震にも全くの無傷という見事な仕事がなされており、他にも道路・工場といった多くのインフラが今でも現役で機能していることとあわせ、現在ウズベキスタンで親日感情が高いことの一因となっている。 1966年4月26日、大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われた。そのため非常にソ連的な町並みとなり、最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長した。ウズベキスタン独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義の動きも出ている。

参照元:ウィキペディア「タシュケント
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